私達は神の言葉を自分達のものとして囲みこんではなりません。いつも、新しく、その時その時に、いつも新しく語り掛けてくださる神の言葉に耳を傾け受け入れ、新しくされる必要があります。

詩編3の作者は、敵に囲まれ絶望的な状況で孤独にさいなまれつつも、「主よ、それでもあなたは私の盾!」と叫びました。この叫びに現れる信仰の頂点は、イエスさまが十字架の上で叫んだ「わが神、わが神!」という叫びです。私達には絶望的な孤独を希望をもって耐え抜く力はありません。しかし、私達の内に与えられた御子の霊が私達に「それでもあなたは私の神!」と叫ばせてくださり、私達が御子と共に「それでも!」と声をあげる時、神の愛が怒涛のように押し寄せ、死と不安に捕らわれた私達を、命と平安へと方向転換してくださいます。

主イエスの言葉は私達を映し出すまっすぐな言葉。主の言葉の向こうにどのような私達の姿が見出せるのでしょうか。

​主イエスが私達の滅びを引き受けて下さいました。そして三日後に永遠の命へと甦られました。死をのみこむ命の勝利です。私達も終わりの時、甦りの朝、イエス様に名前を呼ばれ、死の床から主イエスの復活の命へと立ち上がります。そしてその終わりの時の死をのみ込む命の力は、今、肉と血をもって呻いている私達の内にも働いています。聖霊が与えられているからです。

​私達は、自分の欲望を神さまに押し付け、華やかな奇跡を「神が神であられること」の”しるし”であると考えてしまいます。被造物である私達が神となり、まことの神を評価しようとするのです。しかし、そこに喜びの命はありません。主イエスが仰る「神が神であることのまことのしるし」とは一体何でしょうか。「ここにまさるものがある!」と高らかに宣言されたものとは何でしょうか。ご一緒にイエスさまの御言葉に耳を傾けていきましょう。

​主イエスが仰る「まことに幸せな人」とはどのような人なのでしょうか。主に「まことに幸いな者!」と祝福され人生の旅路を歩んで行きたいと願います。

​私達は弱く、私達を神から引き離そうという力は大きい…でも、神の国は、すぐそこまで、私達が手をのばせば届く所に来ています。神に向かって、主イエスに向かって手をのばし、神の指、聖霊に触れて頂きたいと切に祈ります。

​あきらめずに祈ることを教えていると言われる、「執拗な友人のたとえ」。しかし、そこで語られている主イエスの祈りの真髄は、父なる神への絶大な信頼でした。

私達の生活は、様々な甘言を弄して、私達を神さまから引き離そうとするサタンの誘惑に満ちています。しかし、そのような危うさの中にあって、主は父なる神に祈ることを教えてくださいます。「私達を誘惑にあわせないでください。」危うさの中で私達が祈り叫びを上げるとき、私達は自分たちの本当の姿を見出します。それは、なんの見返りもなく私達のために命を捨ててくださったイエス・キリストの驚く程の愛の中に入れられている自分の姿です。自然な自分を超えた姿です。

主イエスの十字架であらわされた私たちへの信じられないような愛が、私たちに自分の本当の姿、罪ある姿を明らかにします。そして「私たちの罪を赦してください」と祈る者へと私たちを変えてくださるのです。だから、罪の赦しは、神さまからの賜物です。​

​ルカによる福音書の主の祈りの真ん中に位置する三番目の祈り「わたしたちに必要な糧を毎日与えて下さい」という祈りは、主イエス・キリストの在り方そのもののを映した祈りです。そのことを共に見ていきたいと思います。

​キリスト・イエスという葡萄の木にしっかりと繋がり続けるということは、キリストの愛の内に住み着くということ。そうしてこそ私たちは豊かな実を結ぶことができます。人間の力による「成功」は儚いもの。人を傲慢にし、卑屈にします。しかし、イエスさまが実らせてくださる実は恵み豊かで、私たちを謙虚に、そして平安の内へと招き入れます。そして地上でイエスさまと強くつながった命は死を超える命となります。

​キリスト・イエスの十字架に表された神の義なる愛を求めて、「御国がきますように」と祈り叫ぶ私たちの生活の現場こそ、神の国の最前線ー未だ私たちが経験したことがない新しいところです。キリストが連れて行ってくださる新しい国、神の国は、信仰者の生活の現場で、祈りと共に始まります。

​「御名をあがめさせたまえ」…「神を神とさせたまえ」という祈りは、敵を愛せない私たち人間が、敵をも愛する神の愛を求めてあげる叫びではないでしょうか。主の祈りから始まる平和について詩編115とルカ福音書から聴きました。

​祈るとはどういう事なのでしょうか。祈る主イエスの姿から考えてみました。

​神の幼子として生きる喜びの命について考えてみました。

教会で親しまれているマリアとマルタの物語の奥に隠されたキリストの知恵を、直前の「善きサマリア人の譬え」を通して聴いてみました。

私たちは、主イエスであるサマリア人に助けられた半死半生の男です。主は自分の罪、他者の罪に囚われ傷つき死にかけている私達の悲惨をご自分で引き受け、私たちを救ってくださいます。

「見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。」神の御前にまっすぐな生き方についてルカ福音書12章に聴きました。​

​カルバンが「人が生きる意味は神を知ること」と言っています。神を知る喜びを主イエスの言葉からみていきましょう。

​主イエスの喜びから、教会のほんとうの喜びについて聴いてみました。

​主イエスを宣べ伝えることこそ、教会に託された使命です。教会の命ともいえる伝道の業について、主イエスの七十二人の弟子たちへの命令から聴きました。

​新約聖書の中でも最も愛されているテキスト ローマ書5章から、イエス・キリストの恵みの中に立ち続ける秘訣を聴きます。

​天の父なる神さまの最終的な目標はなんなのでしょうか。黙示録に聴きます。

主イエスに従って父なる神の支配のもとに生きる命を、主イエスと弟子たちの問答から考えてみました。

弟子達も私達も、自分たちが神の御心に逆らっているかもしれない…と考えることもなく、「神は私達の味方だ」とうそぶき、自分の敵を神の敵として裁いてしまう者です。主イエスの方ではなく、父なる神の方ではなく、あらぬ方向を見てあらぬことをしてしまう私達。自分たちの名誉や繁栄を求めてしまう者達。でも、主イエスは、そんな私達を振り返り、その眼差しの内に捉えてくださいます。主イエスは私達を見捨てることはないのです。

主イエスは、命をありのまま受け入れることができずに命を選別する心の闇が私どものうちにあることを見抜かれます。しかし、それだけではありません。私どもの心の闇のさらにその奥には、命の造り主である神を慕う飢え乾いた孤独な心を見出して下さるのです。主は私どもの心の奥底まで降りてくださり、十字架についてくださり、そして甦ってくださいました。私どもが父なる神を知り、ありのままの命を喜び受け入れることができるようになるためです。

他者を裁き自分を裁き、神のみ前に生きる命を殺してしまう私達の内側にある「墓場」の力を打ち破るため、主イエスは甦られました。

​イエスさまは、私どものを邪な時代の悪霊から救い出し、父なる神の御手に返すために、十字架の滅びへとご自身を引き渡される救い主です。

​山の上で、父なる神は主イエスこそご自身の独り子であることを宣言し、主の十字架と復活によってもたらされる救いの確かさを保証されました。

​主イエスに従い、自分の十字架を背負って歩む道こそ、神を神とするまことの命への道、喜びの道です。

​私たちが主イエスに倣って、人に仕える時、そこに神の国が現れます。神が私たち一人一人を愛しておられることが、その所に見えるからです。

​パウロが語る「キリストの香」。その意味を、コリント教会が置かれた状況から考えてみました。

​主は、神の力を十二使徒に授け、ガリラヤの各地にご自身の名代として派遣します。しかし、「旅には何も持って行ってはならない」と厳しく禁じられました。主イエスが弟子たちに授けた力とは何でしょうか、そして主はどうして何も持って行ってはならない…と仰ったのでしょうか。それは私達にどのような事を示そうとしているのでしょうか。

​『ヤイロの娘の蘇生』と『十二年間出血が止まらない女性の癒し』という密接に絡み合った二つの物語を丁寧に見ていくと、信仰とは私たちが必死に手を伸ばすが、手の届かない所で、私たちが自分の無力に打ちひしがれる所で、ひたすらに主イエスを求める時に与えられるものだと福音書記者が語っている声が聞こえてきます。

​私たちを神から引き離し滅びへと駆り立てる悪霊。主イエスは、一人のゲラサ人に取り憑き男を狂わせていた悪霊どもに、神の子の聖さをもって、お一人で対峙されました。そして、この男を救ってくださいました。主の悪魔との闘いは、十字架の上まで続きます。そして、主は甦り、私どもを悪魔のくびきから解き放ってくださったのです。この主の闘い、神の子の闘いは、今も続いています。イエス様の聖霊を受けた私どもが、主イエスの十字架と復活を宣べ伝えることこそ、この世を破滅へと導こうとする時代の悪霊に対する神の子の闘いです。

​信仰生活は、イエス様の学校で学んでいるようです。では、その学びの目的はなんでしょうか。それは、「なんと幸せなことか」と思わず言葉がでてしまうような幸せな一生を送ることです。

​主イエスは、私どもと同じ舟に乗って下さり、荒波たける湖に船出してくださいます。私どもは、主と同じ舟の中で、父なる神を深く信頼して生きるように教え導かれます。主は命を懸けて教えてくださいます。私どもの弱さを受け入れ、その弱さを支えてくださいます。そうして、私どもは、「どんな時でも主が共にいてくださる」という確信が与えられ、キリストの静けさを胸に、人生を戦い抜くことができます。なんと幸いなことではないでしょうか。

​私どもが「神の言葉に聞き従う」時、私どもは「神の家族」とされるのです。私どもが神の家族となる事ができるため、イエス様は、この世に降り人の子としてこの地上を生きて救いの業を成し遂げてくださいました。私どもを神の血脈に繋がらせるために、イエス様はその存在を懸けてくださったのです。罪ある被造物の私どもは、自分たちの力だけでは、神の言葉に従う事ができないものですが、私どもの内に与えられている神の子の霊によって、神に従う者とされるのです。なんという恵みでしょうか。

​人間を救う為に、一心同体の愛する独り子を人間としてこの地上に送ろうとしている…神の圧倒的な愛にマリアは押し流され、大きく変えられます。彼女は神の愛に打ち砕かれ、神のみ前にへりくだることができたのです。神のみ前にへりくだったマリアに、聖霊が注がれ、聖なる者とされました。私どもも、また、破れのあるもの、凹みのある者として神のみ前にでましょう。そして、そこに聖霊を注いで頂いた時、私どもは聖なる罪人と変えられます。

​神の言葉という種は、私どもの心に蒔かれ、時が来れば芽をふき、私どもとこの世界を大きく変えていきます。しかし、それは私どもが自分の心に蒔かれた種、託された御言葉を育てていく務めを、父なる神は私どもに委ねてくださいました。そのことを忘れてはなりません。

娼婦として生きざるを得なかった一人の女性、社会の罪、自分の罪に縛られ、自分の命を喜ぶことができずにいた一人の女性が、勇気を振り絞り主イエスのもとへとやってきます。自分の内も外も全てを見通すような大きく厳しい、しかし優しく温かい主イエスの眼差しの内に入れられた時、彼女は、生まれて初めて「私はあなたの罪を赦す、あなたは生きていていい」という神の御心を確信したのだと思います。自分を縛りつけていた罪から解き放たれた、こんな私をも神は大切に思ってくださる…気づくと、涙があとからあとから湧いて出て来て、主イエスの足を濡らすほどにもなりました。罪を赦し私どもを生かす神の愛にこそ希望があります。

​「あなたの敵を愛しなさい」有名なイエスの教えですが、人間には実行する事ができない教えでもあります。イエスは、どうして、人間が実行できない事を戒めとして与えたのでしょうか。そこには、深い神の愛があります。

​イエスは、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」と弟子達を祝福する一方、富んでいる者、満腹している者、笑っている者は不幸だ…とおっしゃいました。イエスの一見謎めいた祝福にはいったい、どのような意味があるのでしょうか。

​主イエスは、12人の使徒達と共に、私達の日常生活の現実にやってきてくださいました。そこに神の国を建て上げるためでした。

​主イエスは、弟子の中から12人の使徒を選ぶ為に、山に登り、夜通し祈られました。イエス様は、御自身を裏切るイスカリオテのユダの為にも祈られたのです。そのように私達ひとりひとりの為にも、イエス様は祈ってくださいます。

​主イエスは、自分達の自己正当化を追い求め、困窮する隣人の事を少しも考えないファリサイ派達を悲しみながら問いかけます。「安息日に律法で許されている事は、善を行うことか、悪を行う事か、命を救う事か、滅ぼす事か」。人々の救いを願ってきた主イエスは深く悲しみながら問うておられます。そこには私達への愛が響いています。

安息日と休息日はどのように違うのでしょうか。イエス様の「人の子は安息日の主である」という言葉から、安息日の意味を聖書に聴きました。

断食して悲しむ事が、”悔い改め”であると思い込んでいたファリサイ派の人々。しかし、私達には自分の罪を受け入れてくださる主イエスが与えられているのです。私達は、主イエスの眼差しの中で、父なる神の胸の中で、自分の罪を素直に認めて悔い改める事ができます。これは新しい喜びです。

町の嫌われ者、徴税人のレビを主イエスはじっと見つめられます。イエスさまの瞳には自分勝手にお金儲けに走るレビの姿が映っていた事でしょう。しかし、主イエスは、あるがままのレビに対して、「私に従ってきなさい」と招きました。このキリストの眼差しの内で、私達は罪に死に新しい命を与えられます。

父なる神は私達をどのように愛してくださるのでしょうか。その神の愛に応えて生きるとはどのような事なのでしょうか。

主イエスは、「”あなたの罪は赦された”と言うのと、”起きて歩け”というのとどちらが易しいか」と問いかけられ、そして、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている事をあなた方に知らせよう」と言い、中風で動けない男を癒されました。主イエスの仰る「地上で罪を赦す権威」とはいったいどのようなものなのでしょうか。

重い皮膚病に全身を冒された男、社会からも疎外され、汚れた者と差別された者。彼はイエス様を見て、ひれ伏して祈ります。「主よ、あなたがそのように望まれるなら、あなたは私を清くする事ができます。」この祈りは、自分の力ではなくイエス様の力のみを信じ、自分ではなく、イエス様にのみ望をおいて、その御前に自分の全存在を委ねる祈りです。このような祈りを私達も祈りたい、この祈りに生かされたい…と思います。

徹夜で漁をしたのに一匹の魚もとれなかったシモン達。「自分達が一生懸命にやってきた事は虚しかった」虚しさの中にいたシモンにイエス様が近づかれ、「沖へ漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と仰います。

​シモンは、イエス様の招きによって、自分ではなくイエス様に望をおく生き方へと一歩踏み出します。シモン・ペトロの冒険が始まります。

​主イエスは、熱で動けなかったペトロの姑をはじめ、病で苦しむ多くの人々を救います。主イエスによって苦しみから解き放たれた人々は、喜んで主イエスのために働きます。ここに教会の姿が見えます。主はここ横浜の地にもやってきてくださいました。そして色んな苦しみのために父なる神を忘れている私たち一人一人に寄り添い、父なる神のもとに連れ帰ってくださいます。

​カファルナウムでの礼拝で起こったことは、主イエスが闇の力に囚われた人を、権威ある言葉で解放した出来事でした。主イエスの権威ある言葉とはどのようなものなのでしょうか。

​福音書記者ルカは、故郷ナザレで惨めな失敗に終わったエピソードを、主イエスの伝道活動の最初に描いています。そこには、自分の気に入ったものだけを神とする私たち人間の深い罪と、その罪を気づかせ本当の神の愛に導こうとする主イエスの姿があります。

​イエスさまは、会堂の礼拝で説教することで伝道活動を始めました。最初に聖書を開かれたのです。そして「今が解放の時」とイザヤ書を引用しました。礼拝で聖書の言葉を聴く時、私たちに何が起こるのでしょうか。