​ルカ福音書7:1~10の言葉は、人と人との関わりについて主イエスが弟子達に語った言葉です。実際の教会の生身の人間達と接し、罪人達の集まりをキリストの体としてたて上げる為の苦しみを経験しつつ、キリストの僕として神の愛に生かされたパウロの言葉を通じて、ルカ福音書17:1~10に記されたイエス様の教えの本質を探っていきたいと思います。

​弟子達に赦しと信仰の教えを語っておられた主イエスが唐突に感じられる仕方で始められた「僕と主人の譬え話」。主は、この譬え話を通じて、私達人間が築く周囲の人との関係の根本に、神との関係があると教えて下さっているようです。

​主イエスは、「ラザロと金持ち」の譬え話を通して、「豊かな人は貧しい人に親切にしなさい。そうすれば天国に行く事ができる」と仰っておられるのでしょうか?自分の安全圏にいて上から目線でする施しで、天国に行けると主はおっしゃっているのでしょうか。「ラザロと金持ち」の譬え話を丁寧に聴き直すことで、主が私たちに伝えたい事を探ってみました。ヒントは、ラザロという名前でした。

​神の律法を守り清貧に生きていたファリサイ人達はいつしかこの世の富と名誉に執着するようになります。どうして彼らは変わっていったのでしょうか。主イエスの言葉から、神の国の現実に生きるとはどのようなことか聞きました。

​聖書の中でも難解な「不正な管理人の譬え」、天の御神から見ればどのように聞こえるのでしょうか。主イエスはこの譬えで弟子たちや私たちにどのような事を教えようとしているのでしょうか。

今週は、牧師休暇のため、優れた説教から福音を聞きます。礼拝で朗読されたのは、1940年ベルリン・ダーレム教会ゴルヴィツァー牧師の説教です。ナチス・ドイツの迫害を教会として耐え抜いたダーレム教会。イエス・キリストに生き抜く教会をつくりあげた神の言葉の説教のひとつです。キリストと共に苦しみの中で神の祝福に出会う事でしか、私たちは正しく苦難に対処する事はできない…とゴルヴィツァー牧師は、まさに苦難の中にあった教会に語りかけます。出典は『イエスの死と復活―ルカによる福音書』(ゴルヴィツァー、岡本不二雄・岩波哲男共訳 新教出版)です。

人間の罪が凝縮する現代社会の地べたから見る「腐った現実」。しかし、その腐った現実を突き破る祈りがあります。地べたまで降りてきてくださったキリスト・イエスの霊が、どう祈ってよいかわからない私たちの代わりに呻きをもって執り成す祈りです。

​有名な放浪息子の譬え話は、「父の愛の物語」であり、「二人の放浪息子の物語」と呼ばれています。模範的で優等生の兄息子もまた父の許をさまよい出ていました。この兄に対する父の愛の姿を見ていきたいと思います。

​危機に陥った時、私達は自分の本当の姿に気づかされます。父なる神、自分を受け入れ深く愛する方のもとでこそ健やかに生きる事ができる自分であると気づかされるのです。そんな私達を喜んで迎えて下さる父なる神と私達の物語が『放蕩息子』の譬え話です。

​「見失った羊」と「無くした銀貨」の譬えが描き出す罪人を見つけ出すまで探す神の深い愛と見つけ出した時の神の大きな喜び。この神の喜びに、主イエスに見出された罪人として与って初めて、私達は隣人の救いを喜ぶことができる者とされます。

​有名な「見失った羊」の譬え。しかし、私達が忘れがちな事があります。それは、迷える羊を見つけた時の羊飼いの喜びです。天の喜びの声をこの譬え話から聴いていきましょう。

厳しい言葉を群衆に向けて語る主イエス。しかし、主は私達の命や家族とのつながりを決して軽く考えておられるわけではありません。軽く考えるどころかとても大切に考えておられるからこそ、最善の知恵として、いったんすべてを捨ててご自身に従いゆく道へと招かれるのです。

​大宴会の準備をしたのに招待客に次々断られた主人、やけになってあらゆる人を招こうとします。主イエスのこの譬え話には元ネタがありました。この譬え話を通じて主イエスは神の招きの本質を語ります。

​主イエスの言葉は一筋縄ではいきません。上席に着こうとする人への「誰でもへりくだる者は、神が高めてくださる」という言葉、「宴会にはお返しが出来ない人を招きなさい。正しい人が復活する時、あなたは報われる」という宴会の主催者への言葉、これらの言葉を通じて、主イエスはどのような生き方を私達に伝えようとしているのでしょうか。

「からだは離れていても霊では共にいる」コロナ禍の中、離れた所で礼拝を献げることを余儀なくされた私達。どうして「霊では共にいて」礼拝を献げることができるのでしょうか。私達を一つにする聖霊とはどのようなお方なのでしょうか。ローマ書第8章、パウロの言葉に聴いてみました。

ルカはファリサイ派達の「変質」を、細かなエピソードの積み重ねによって緻密に描き出します。ファリサイ派や律法学者達は、自分達の正義に固執するあまり、超えてはならない一線を越え、主イエスを十字架に磔る道へと踏み出します。しかし、主イエスは、罪に囚われ滅びの道を進む人間達の仕掛ける罠を軽やかに飛び越えられます。そして自分に罠を仕掛ける者たちの食卓に敢えてつき、愛の業を通して、罪の外へ出て、神の子らの自由の食卓につくようにと招いて下さいます。

​礼拝でイエス・キリストと出会う時、私達は変えられていきます。それは何故なのでしょうか、聖書テキストに聴いてみました。

​「救われる者」-果たして神は誰を救いに選び、誰を滅びに選ばれるのか、神の救いを考えるうえで大切なことは何のなのか、聖書の御言葉に聴いてみました。

​主イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」とおっしゃいます。「狭い戸口から入る」とはどのような事なのでしょうか。

主イエスの神の国の譬えに出て来る「からし種」や「パン種」は具体的には何を示すのでしょうか。「神の国」と人間が理想とする「理想郷」とはどう違うのでしょうか。

新型コロナウィルス禍で、一同に会した礼拝が難しい今、改めて私達が献げる礼拝とは、何であろうかと考えていたら、礼拝とは、「神を神として崇め、隣人を愛する業」であることを主イエスが教えてくださいました。

​イースタータイド、イエス・キリストの甦りの命の大潮が私達の所へとやってきました。この大潮に乗るために、私達がなすべきこと、それは、<主イエス・キリストを思い起こすこと>。今はそれぞれに離れた場所にいますが、同じ主イエスを思い起こし、同じイースター・タイドに乗って共に神の国を目指していきたいと願います。

主イエスは私達の罪の現実を深く嘆きつつも、その惨状に進み行ってくださいます。そして私達を聖め用いて神の国を造ってくださる。その為に十字架へと歩み行かれるキリストの後を慕い行きたいものです。

私達は神のブドウ園に植えられたイチジクの木。果たして神は私達に何を待っておられるのでしょうか。

私達人間は、「自分は違う」と言いたがりますが、主イエスはみな私達は同じだと言います。どんな点で同じなのでしょうか。新型コロナウィルス蔓延によって混乱した世界に生きる私達に主イエスは新しい命を示してくださいます。

​主イエスは、「今」という時がどのような時であり、どのように生きなさいと仰っているのでしょうか。新型ウィルス感染で混乱した時だからこそ、主イエスの声に耳を傾けてみましょう。

​「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」主イエスの審きの厳しい言葉です。しかし、それに続く言葉はなんとも意外なものでした。

​主イエスは、教会が主イエスに忠実であり、思慮深くあることを望んでおられます。主に対して思慮深いとはどのような事でしょうか。

​主に望を置く事で与えられる力は、無から有を造り出す力です。

神の現実へと目を覚まして待つ信仰者の幸いとは何でしょうか。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」神の御前に小さくなり、神により頼んで生きていく事こそ、祝福に満ちた命です。

主イエスは生活の心配事に支配され、心を心配事の中においてはいけない。神の国、神の力が完全に支配する場所にあなたがたの心を置きなさい…と私達を招かれています。言葉だけではありません。滅びの不安におびえ心配するしかない私達を、主イエスは救いだし、甦りの命へと生かしてくださいます。私どもの心を、主イエスの傍らに、永遠の朝の光の中に置くことができますように…と祈ります。

​私達人間は、神に生かされている被造物である事をわきまえず、命を自分のものと思い自己中心的に生き、肉体の寿命が尽きれば惨めに死ぬしかありません。父なる神さまは、滅んでいく私達を憐み、御子イエス・キリストに、私達が負わねばならない惨めな死を負わせました。主イエスは私達の滅びを滅んでくださいました。しかしそれで終わりではありません。御子イエスは三日目に、永遠の命へと甦らされたのです。死は御子の十字架によって滅ぼされ、私達も甦りの命に生きる事ができるようになったのです。

​「人の子の悪口を言う者は赦されるが、聖霊を冒瀆する者は赦されない」、人の子の悪口を言う事と聖霊を冒瀆する事の違いについて、ペトロとイスカリオテのユダの比較から、考えてみました。そこには汲んでも汲んでも尽きない神の深い憐みがありました。

ヨセフがそうであったように、私達人間はそれぞれの命を喜ぶことができない時があります。この私達の限界を打ち破る為に、神の御子は私達の所にやってきてくださいました。大きくて豊かな神の御子が、小さく乏しくなってくださり、私達の弱さの中に分け入り、徹底的に私達と共にいてくださる事で私達を支え、命を喜んで生きることができる者へと変えて下さるために。

主イエスは、この世の権威者を恐れる弟子達に、私達に語り掛けてくださいます。「正しい恐れを抱きなさい。恐れるべき人を畏れる時、間違った恐れから解放されます」と。私達が神を畏れて生きることができるように、主はこの世へと来てくださったのです。主の愛のなんと深いことでしょうか。

神の目と人の目は全く異なります。律法学者やファリサイ派達のように、偽善という自己義認の根深い罪を抱える私達は、神の目にはどのように映っているのでしょうか。

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日本ナザレン教団横浜教会(横浜ナザレン教会​) 横浜市西区霞ヶ丘51番 TEL/FAX:045(253)1226

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