私達は神のブドウ園に植えられたイチジクの木。果たして神は私達に何を待っておられるのでしょうか。

私達人間は、「自分は違う」と言いたがりますが、主イエスはみな私達は同じだと言います。どんな点で同じなのでしょうか。新型コロナウィルス蔓延によって混乱した世界に生きる私達に主イエスは新しい命を示してくださいます。

​主イエスは、「今」という時がどのような時であり、どのように生きなさいと仰っているのでしょうか。新型ウィルス感染で混乱した時だからこそ、主イエスの声に耳を傾けてみましょう。

​「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」主イエスの審きの厳しい言葉です。しかし、それに続く言葉はなんとも意外なものでした。

​主イエスは、教会が主イエスに忠実であり、思慮深くあることを望んでおられます。主に対して思慮深いとはどのような事でしょうか。

​主に望を置く事で与えられる力は、無から有を造り出す力です。

神の現実へと目を覚まして待つ信仰者の幸いとは何でしょうか。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」神の御前に小さくなり、神により頼んで生きていく事こそ、祝福に満ちた命です。

主イエスは生活の心配事に支配され、心を心配事の中においてはいけない。神の国、神の力が完全に支配する場所にあなたがたの心を置きなさい…と私達を招かれています。言葉だけではありません。滅びの不安におびえ心配するしかない私達を、主イエスは救いだし、甦りの命へと生かしてくださいます。私どもの心を、主イエスの傍らに、永遠の朝の光の中に置くことができますように…と祈ります。

​私達人間は、神に生かされている被造物である事をわきまえず、命を自分のものと思い自己中心的に生き、肉体の寿命が尽きれば惨めに死ぬしかありません。父なる神さまは、滅んでいく私達を憐み、御子イエス・キリストに、私達が負わねばならない惨めな死を負わせました。主イエスは私達の滅びを滅んでくださいました。しかしそれで終わりではありません。御子イエスは三日目に、永遠の命へと甦らされたのです。死は御子の十字架によって滅ぼされ、私達も甦りの命に生きる事ができるようになったのです。

​「人の子の悪口を言う者は赦されるが、聖霊を冒瀆する者は赦されない」、人の子の悪口を言う事と聖霊を冒瀆する事の違いについて、ペトロとイスカリオテのユダの比較から、考えてみました。そこには汲んでも汲んでも尽きない神の深い憐みがありました。

ヨセフがそうであったように、私達人間はそれぞれの命を喜ぶことができない時があります。この私達の限界を打ち破る為に、神の御子は私達の所にやってきてくださいました。大きくて豊かな神の御子が、小さく乏しくなってくださり、私達の弱さの中に分け入り、徹底的に私達と共にいてくださる事で私達を支え、命を喜んで生きることができる者へと変えて下さるために。

主イエスは、この世の権威者を恐れる弟子達に、私達に語り掛けてくださいます。「正しい恐れを抱きなさい。恐れるべき人を畏れる時、間違った恐れから解放されます」と。私達が神を畏れて生きることができるように、主はこの世へと来てくださったのです。主の愛のなんと深いことでしょうか。

神の目と人の目は全く異なります。律法学者やファリサイ派達のように、偽善という自己義認の根深い罪を抱える私達は、神の目にはどのように映っているのでしょうか。

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日本ナザレン教団横浜教会(横浜ナザレン教会​) 横浜市西区霞ヶ丘51番 TEL/FAX:045(253)1226

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